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目途をきっぱりと定め、ただ良い音楽を求めていればいいのよね。
誰も耳を傾けなかったなら、それは音楽ですらないのよね。
猛省
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ノルマの交渉をするために、某ライブハウスに行った。
ブッキングの方に「ノルマを払う意志」がないということを伝えて、「ライブハウスって、お金を払えば、誰でもステージに上がれるんですか」と、やや挑戦的に尋ねた。そのライブハウスの方は善意の人で、話を真摯に聞いてくれて、そして至極まっとうな意見を述べてくださった。
けれど、彼の話をきく限り、ライブハウスのシステムは非常にステティックで、やはりビジネス的に過ぎると思うんだよ。
そりゃそうだよな、ボランティアじゃないんだしさ。
でも手元不如意なぼくらとしては、「お金払えば誰でもステージに立つことができて、演奏できるなんてカラオケと同じ」だと思ってしまうし、だからこそお客さんたちに聴かせられるレベルを目指すし、また「良い音楽=支持される音楽」とも言い切れないわけで、一般の方々に受け入れられる(もちろん将来的に受け入れられること、良いものであることが前提として)までの(一種の)モラトリアム期間を支える土壌を、ライブハウスが作ってくれてもいいんじゃないか、音楽が好きならば・・・。と思ってしまうのです。
結果的に、「口でいくら言われても伝わらないから、聴いてダメだと思ったら、次はないよ」という条件付で、一度だけノルマを免除してくださった。
音楽が好きなのである。音楽が好きであるから、こういう無礼な交渉も勘案してくれるのである。
けれども、、
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ライブハウスを出た後、嫌な気分になった。
なんだか自分が、体制を無条件に批判するアナーキー気取りの夜郎自大に思えてきたから。ぼくらは集団に帰属することを、あるいは社会にコミットすることを、ただただ論駁し、切り捨てているだけなんじゃないか。
そういう人間は権威を否定はするけれど、自らが反体制という体制にカテゴライズされていることには、えてして不問である。
そういう人間の様相をカウンターカルチャーとは言えない。そういう人間が作るものは奇矯ではあるかもしれないが、大勢の人々からシンパシーを得ることは出来ない。
なるほどね
「ドミソじゃ恥ずかしいから、ドミソ♯にするか」と思ったと同時に湧き上がる含羞は、「体制を嫌いな人たちの作る体制」に属してしまったときの"照れ"に似ているんだな。どちらも、内から喚起するアイデンティティーではなく、対マジョリティーへの反感なのかもしれない。
まぁ、それがまったくの悪であるとは思わないけれど・・・。
ただ、、
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曲を作るときの姿勢として、、
なんて話をはじめると説明過多になるので、やっぱり止めます。
そもそも、技巧的なことを語った時点で、あるいは作曲についてサジェッションされた時点で、音楽なんて聴く気が失せるよね。少なくともぼくだったら失せるな。
ちょっとまえに柴田元幸と村上春樹の対談本を読んでいて、彼等の話はおもしろいのだけれど、サリンジャーやらフィッツジェラルドやら、または村上春樹自身の小説のディテールについて、彼等が技法的なことを事細かに話していて、なんだかうんざりしてしまった。彼の小説にかかっていた涼やかな魔法も解けてしまった気がする。
人称だとか、小説の構造だとか、そんなものは抜きして読者にすべてを放り投げるのが作者の節度だと、ぼくなんかは思うけれど。
まぁいいさ、、
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さっき映画観たんだ、『刑務所の中』ってやつ。役者が良くて、なかなかおもしろい映画で、愉快に、またシニカルに刑務所の生活を描いたものだ。
しかしずっと見ているうちに、刑務所の生活というか規律が、小学校の時分に馴染んでいた習慣に酷似していることに気付いた。
"前へ習え"とかさ、薬缶のお茶の入れ方とか、教師(看守)への従属さとか。
「体育座りは従属の象徴、あれは自らを自らの手で拘束する体勢」のような(違ったかも)くだりをどこがで読んだけれど、今思うと小学校って権威主義の象徴だったんだな。たぶん。給食はパンと牛乳だったし。
(焼いていない食パンは本当に不味くて、ぬるい牛乳瓶はロバの給水場のような味がした。なので、ぼくは今でも食パンは嫌いだし、牛乳も好んで飲まない。GHQのせいです。)
まぁ、映画はそこそこおもしろかった。
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何が言いたいのかわからなくなってきました。とにかく、最近帰宅すると、安心するのか、すかさず猫がトイレに駆け込むんだけど、テンションあがると、腸も活性化するのかしら。
それでは、メリークリスマス、あるいはあなたに万福を。

