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2008年12月09日


目途をきっぱりと定め、ただ良い音楽を求めていればいいのよね。
誰も耳を傾けなかったなら、それは音楽ですらないのよね。
猛省
::
ノルマの交渉をするために、某ライブハウスに行った。
ブッキングの方に「ノルマを払う意志」がないということを伝えて、「ライブハウスって、お金を払えば、誰でもステージに上がれるんですか」と、やや挑戦的に尋ねた。そのライブハウスの方は善意の人で、話を真摯に聞いてくれて、そして至極まっとうな意見を述べてくださった。
けれど、彼の話をきく限り、ライブハウスのシステムは非常にステティックで、やはりビジネス的に過ぎると思うんだよ。
そりゃそうだよな、ボランティアじゃないんだしさ。
でも手元不如意なぼくらとしては、「お金払えば誰でもステージに立つことができて、演奏できるなんてカラオケと同じ」だと思ってしまうし、だからこそお客さんたちに聴かせられるレベルを目指すし、また「良い音楽=支持される音楽」とも言い切れないわけで、一般の方々に受け入れられる(もちろん将来的に受け入れられること、良いものであることが前提として)までの(一種の)モラトリアム期間を支える土壌を、ライブハウスが作ってくれてもいいんじゃないか、音楽が好きならば・・・。と思ってしまうのです。

結果的に、「口でいくら言われても伝わらないから、聴いてダメだと思ったら、次はないよ」という条件付で、一度だけノルマを免除してくださった。
音楽が好きなのである。音楽が好きであるから、こういう無礼な交渉も勘案してくれるのである。
けれども、、


ライブハウスを出た後、嫌な気分になった。
なんだか自分が、体制を無条件に批判するアナーキー気取りの夜郎自大に思えてきたから。ぼくらは集団に帰属することを、あるいは社会にコミットすることを、ただただ論駁し、切り捨てているだけなんじゃないか。
そういう人間は権威を否定はするけれど、自らが反体制という体制にカテゴライズされていることには、えてして不問である。
そういう人間の様相をカウンターカルチャーとは言えない。そういう人間が作るものは奇矯ではあるかもしれないが、大勢の人々からシンパシーを得ることは出来ない。

なるほどね
「ドミソじゃ恥ずかしいから、ドミソ♯にするか」と思ったと同時に湧き上がる含羞は、「体制を嫌いな人たちの作る体制」に属してしまったときの"照れ"に似ているんだな。どちらも、内から喚起するアイデンティティーではなく、対マジョリティーへの反感なのかもしれない。
まぁ、それがまったくの悪であるとは思わないけれど・・・。
ただ、、


曲を作るときの姿勢として、、

なんて話をはじめると説明過多になるので、やっぱり止めます。
そもそも、技巧的なことを語った時点で、あるいは作曲についてサジェッションされた時点で、音楽なんて聴く気が失せるよね。少なくともぼくだったら失せるな。
ちょっとまえに柴田元幸と村上春樹の対談本を読んでいて、彼等の話はおもしろいのだけれど、サリンジャーやらフィッツジェラルドやら、または村上春樹自身の小説のディテールについて、彼等が技法的なことを事細かに話していて、なんだかうんざりしてしまった。彼の小説にかかっていた涼やかな魔法も解けてしまった気がする。
人称だとか、小説の構造だとか、そんなものは抜きして読者にすべてを放り投げるのが作者の節度だと、ぼくなんかは思うけれど。
まぁいいさ、、


さっき映画観たんだ、『刑務所の中』ってやつ。役者が良くて、なかなかおもしろい映画で、愉快に、またシニカルに刑務所の生活を描いたものだ。
しかしずっと見ているうちに、刑務所の生活というか規律が、小学校の時分に馴染んでいた習慣に酷似していることに気付いた。
"前へ習え"とかさ、薬缶のお茶の入れ方とか、教師(看守)への従属さとか。
「体育座りは従属の象徴、あれは自らを自らの手で拘束する体勢」のような(違ったかも)くだりをどこがで読んだけれど、今思うと小学校って権威主義の象徴だったんだな。たぶん。給食はパンと牛乳だったし。
(焼いていない食パンは本当に不味くて、ぬるい牛乳瓶はロバの給水場のような味がした。なので、ぼくは今でも食パンは嫌いだし、牛乳も好んで飲まない。GHQのせいです。)
まぁ、映画はそこそこおもしろかった。


何が言いたいのかわからなくなってきました。とにかく、最近帰宅すると、安心するのか、すかさず猫がトイレに駆け込むんだけど、テンションあがると、腸も活性化するのかしら。

それでは、メリークリスマス、あるいはあなたに万福を。

2008年05月16日

最近、外国旅行記をぺらぺら読んでいて、酷く外国に行きたくなってしまった。
(字面から想起される外国の風景は、ぼくの場合、なぜかいつもきまってスーパーマーケットなんです。なぜでしょうか。)
でも、とくにそんなエッセイを読まなくても定期的に外国逃避願望がふつふつと沸く。
外国に住むということのメリットは、言葉が通じないことだ。
メリットというと、いささか語弊があるけれど、自分にとって自明的ではない言葉に囲まれて
絶対的なコミュニケーション不全に陥るがゆえに獲得できる欠落感や否応なく気付かされる人間の先天的に持った"病態"というものがあるからだ。(獲得できる欠落感、なんだそれ)

たとえば、外国人と膝を交えて話をしているときに、どうしても自分の考えや意図が通じないという場面は多分にしてある。そんなときは悲しいし、無力感を感じずにはいられない。
けれども考えてみれば、日本人同士だって言葉が通じないことは多々あるじゃねーか。と思う。
会話の成就は、ボキャブラリーや知識の多寡にだって因るし、世代が違えば、環境が違えば、性別が違えば、分かり合えるどころか、まったく気持ちが通じないことさえ、ざらにあるのだ。
仲間内で一人だけ話についていけずに、置いてきぼりを食うこと、"ローカルネタ"や"KY(空気読めない?)"という状態にだってコミュニケーションの不全は見られるのだから。

そもそも、ぼくらはいったいどれだけの人とシンパシーを感じ、あるいは気持ちの伝達を達成できているのか。ぼくらは無意識下で、気持ちを十全に伝え合うことなどそう簡単にできるものではないということにおいて"のみ"黙諾を完了させているがゆえに、「いいよ俺、その意見で。同意っス。」という付和雷同状態に陥るのである。
インサイダーに帰属しているというのは、まぁ、たぶんそういうことなんだろう。
ようするに、対話において、コミュニケーション不全は、意識したり自覚したりすることが困難なだけで、もともと内包しているものである。それが日本にいる限り、表面化されることはないだけなのだ。
そのようなコミュニケーションへの苛立ちは、外国にいると、希薄になる。「言葉にすればいいじゃん」的、自明性がさっぱりと払拭されて、自分の思考が涼やかに透明性を増す。
言語外にある音楽的なもの、あるいは言葉の風景が見えてきたりする。
コミュニケーション不全がもたらす弊害はいくつもあるけれど、(センソーとか、性差とか)
コミュニケーション不全が奏功して描くミニマルな世界は、とても素敵だと思う。
(だからぼくは外国に行く代わりに愛猫との対話で、会話能力の涵養を図っているわけです。)

語学学校の中庭にある石のベンチに寝転んで、フランスの太陽(そんなものがあるんだよ本当に。)
を浴びながら、授業の終了ベルを聴いていた時間、
夜、街の灯りも届かない丘に登って、空を見上げ無数の星を見上げた時間、
(信じられないだろうけれど、夜空の青い表面積より星のほうが多いのだ。)
そこには、語学学校に響き渡る動詞の活用も、眼下の雑踏も消えて、
地続きの、いや空続きの世界があった。(Imagine there's no countries~♪)

ぼくの老師は、はじめの授業で、「太陽の曲を書いてこい。」と言った。
翌日に半ば徹夜で書いた譜面を持って行くと、「これはイタリアの太陽ではないな。」と言って、
何時間もかけて書いた音符たちを消しゴムで綺麗さっぱり消して(油性ボールペンで書けばよかった・・・)「イタリアの太陽は・・・」と呟きながら、五線譜の上に輝く太陽を昇らせた。
当時、ぼくは「十人十色、人それぞれの太陽があったっていいじゃねーか。なんだその決め付けは。」と思ったものだった。けれど、彼が言いたかったのはそのような限定された思考ではなく、
世界が共鳴する色彩であり、言語外のイデアだったのだと思う。
老師との会話は極端に少なかったけれど、レッスンの間中、
淀みない言葉のやりとりが宙に浮かんでは消えた。(ゆえにぼくのイタリア語はザルなんですね。)

二年後にシチリアのエガディー諸島を自転車でちりんちりんと周遊したときに、ぼくは初めてイタリアの太陽を発見した。あの牧歌的な旅は素敵だった。
ハッピー。でもある種の哀しみを抱えた生活。

新しい曲を作らなければならない。
どうも近年、作りたい曲と、作った曲との間に、乖離がある。
あたりまえといえばあたりまえで、至極当然なことなのだけれど、その溝が昔よりも深い気がする。
頭の中のイメージを鍵盤で叩く、あるいは採譜して具現化する過程で、
当初持っていた輝きは、失われてゆく。
この乖離については、いろいろな人が同じ文脈で書いているけれど、
作品が少しずつ姿を現すたびに、「あれ、おかしいな。こんなもの作るつもりだっけ・・・」という違和感は誰もが感じることなんだと思う。
自分の発語した言葉が、往々にして本心から少し離れた場所に軌跡を描くときのように。
あるいは、眠りから覚めて目を開けると、今見ていた夢の筋書きがまたたく間に消えてゆくときの喪失感とも似ている。

歌っていない歌が響いて、語ろうとしていない言葉が語られること、
それらが唯一、世界に彩りを与える瞬間なのだと思う。


天井のない部屋
ライヴが続きます。

ステージでは、程度の差こそあれ、様々な理由でパフォーマンスが変化する。室内の空調や、楽器の質、ライヴの時間帯などが起因して、身体は開放され、また抑制される。(先日のライヴの鍵盤は、決して良質とは言えないものだった。)

多くの人は、仕事の現場やステージで「自分を最大限に生かせる場」を要求するけれど、それはたぶん、彼らが思う「理想的な好環境」ではない。人が持っている能力以上のものを絞り出しているとき、彼らはどこかで規制されているはずである。「こんな環境で、こんな条件だけど、まぁ頑張ってね。」と言われたときに初めて、知性はアクティブになるし、「仕方ないな…」と思いつつも、身体の底のほうに残っている才知を駆使して、今までに抽出していなかった能力を発揮するのである。

ぼくのような凡庸な音楽家はとくに、条件付けされたときのほうが、自由気ままなときよりも上手に立ち回ることができる。 縛られているほうが円滑洒脱の身よりも想像力は涼やかに起動している。ということに最近気付いた。(そんなこともわからないようだから、いつまでたっても凡庸なんだよ。)
作曲においても同じである。はじめに「4分の3拍子で、C-durで始まって、A-mollで終わる32小節の曲を作りなさい」と言われたほうが、「なんでもいいから明るい曲つくって」と言われるよりもはるかに「自由自在」なのである。
考えてみたらあたりまえだよな。
天井のある室内では、おもいきりジャンプできるけれど、空に向って全力で飛び上がるのは、何か心もとないし、高く跳べた気がしないもの。

そんなわけで、先日のライヴは大成功であった。
歌は軽やかに弾み、鍵盤と打楽器には、深遠なコレスポンダンスが生まれた。(ただし、PAの方が優秀であることが前提である。ありがたや。) このくだり、何が言いたいのかといえば、「ステージが俺ら的じゃないね。ぷい。」というような稚拙な言い訳は通用しないということである。



最近個性について思うところがあったので、少し。
簡単にいってしまうと、個性的であろうとする振る舞いが自分の首を絞めているということです。(というかぼく自身、そうであった。)「人と違う」ことへの希求は、秩序からの脱却を通して成しうるものではない。真逆である。先述したように個性というものは条件を課したときに、より顕著になる。(たぶん。) というより、目を凝らさなければ見分けのつかないような条件下では、個性は何もしなくても際立つものだ。

ブティック街を歩けばよくわかる。 人との差異化を図ろうと、ブランド品に身を包んだ女の子たちは、 ごく自然に、「わたしはあなたと違うのよ」的グループに"カテゴライズ"されている。真に個性的な女の子は、「人と差異をつける」ために洋服なりバッグなりを選ばない。真に個性的ではない女の子が、「差別化(あるいは個性化)を図ろうと」して、想像力を磨耗しているのである。
彼女たちはマイノリティーとしての主張を掲げているのではなく、(もちろん個性的でありたいと盲信しつつ)「マイノリティーではない人々(要するにヴィトンのバッグを持てない人々)がいること」を強く望んでいるのである。なんと後ろ向きな祈りであろうか。

個性的でありたいという"祈り"は、「どうあっても個性的になれない人」がいて、はじめて成就する願望である。「どうあっても個性的になれない人」など、そもそも生物学的にありえないから、個性的という神話は不毛である。 個性への偏執というのは、たとえば成功を求める人が、無意識下で、「どんな努力をしても結実せず、どんな訓練も報われない人が出来るだけ多くいてくれ!」と切望することに似ている。
また、知への追求を惜しまず「馬鹿」を睥睨する姿勢が、実は「馬鹿」の存在価値を認め、彼らを含めたヒエラルキーを財貨のごとく死守しようとしていることと同型である。 個性的であろうする"祈り"というのは、自分以外の人々を常に意識して観察し、彼らの身振りをチェックして、研究することに他ならないのである。

また、著作権というのも同じ思想だ。
"個性が自分の内から滲み出たものだと信じて止まない人々"が往々にして個性性を主張し、コピーライトを死守しようとするのである。 「これは俺にしかできない。俺と同じことをするやつは徹底的に排除する。」

個性とは人の色などではない。並べられた多種多様な色鉛筆から、 いざという時に(ある条件下で)その場に適合した色鉛筆を選びとる能力を個性と呼ぶのである。ヽ(^。^)ノ


というようなことを自分に言いたい。一年ほど前に、ぼくが友人に個性性の重要性を説いたとき、「今まではそうだけどね、21世紀は身体の時代になると思う。」と言われた。当時、ぼくはその意味することがうまく掴めなかった。そして一年経ち、ようやく「身体」の個性性に気付いた。 そうなんです。人との比較が個性ではなく、というか人は生まれながらに個性的な身体を持っているわけで、改めて個性を主張することもないわけなんですね。個性的でありたいと思うのであれば、自分の身体をくまなく点検すれば良いわけです。 その運用方法に、個性が隠されているのです。
おしまい。

この暴論コラム?は、某内田氏(またかよ)のブログのテキストからインスパイアされたものです。最後までドライブ感のあるテキストなので興味があれば読んでみてください。

2008年05月15日

青山と渋谷のライヴが終わりました。さて再び、アレンジにとりかかろう。


渋谷公園通りクラシックスのPsalmイベントは良かった。
Psalm、細谷季子、両君ともに純度の高い良いパフォーマンスで
会場は暖かく、そして親密な時間が流れた。

ぼくらの前に歌った細谷さんの歌は弾力があって、濁った水のなかを泳ぐ、澄んだ魚の眼をした歌い手だった。人は元来矛盾した存在だけれど、その矛盾を表現する人は稀である。(矛盾なんか認めたくないんだから。)
彼女のお陰で、ぼくらは心地よく演奏することができた。
Psalmのステージは本当になめらかで、円転滑脱に進行する、完成度のとっても高いものだ。
うーん、明確なイメージが浮かぶよ。高揚する静けさも、唸る沈黙も。学ぶべきことの多い二人。
そして、深い敬意を感じずにはいられない。
慈悲喜捨たる、Psalmのおふたり、細谷さん、お客さん、あとNGATARIメンバーズ、愉悦の時間をありがとう。

前日、ボーカル・Jessicaの声が出ないというアクシデントがあったのだけれど、それが良かった。奏功したといってもいいぐらいだ。抑制され、条件を課せられた状態のときにおいてのみ、進化の芽はアクティブなものとなる。というようなことをつらつら書こうと思ったけれど、このネタ前に書いたな。というわけで割愛。
http://www.ngatari.com/blog/2008/01/post_2.html 
(でも、ほんとうにやる気なくしてたんですぼく。直前までは。)


夜もふけて、テレビの前でぼんやりしていると、セイフティーネットの破綻、社会保障制度の没落をかなりネガティブに報じている番組がやっていた。企業の正規雇用削減のためにリストラ、または辞めた人々が、従来の(終身的に確約されていたはずの)保険を受けられずに、病気になっても治療を受けられないということを淡々と諦めたように報道する番組だった。
いったいこの番組のTVディレクターは誰に何を訴えているのだろうか。他責的な切り口なのだけど、
どの方面にベクトルが向いているのかがわからない。政府だろうか、経営者だろうか。その両方だろうか・・・。

確か以前、小泉元首相が「多少の痛みは我慢してくれよ。未来のこと考えてさ。」という言い方で構造改革をはじめたような気がする。(だいぶ言い方は違ったけれど、ようはそんな感じだった気がする。気がするだけかも。)
別に、痛みの多寡にケチをつけているわけでは全然なくて、お知らせしておくべきだったんじゃないの?と思うのです。また、「未来のことを考えて」というセンテンスを身体的に感知させることは不可能であるから(だって、地獄のような未来なんて誰も想像したくないし)
小泉さんは「多少の痛みの代償として、おまえらの子供・孫世代が幸せになるかもしれません。よろしく!」とアナウンスし、かつ、プロレタリアたちに向けて「構造改革によって、フツーに病気になったり、治療を断念したりしなくちゃなんない場合でてくると思うけど、我慢してね。」という留意をするべきだったんですね。
だからこんな不幸な番組を夜中の1時に垂れ流すはめになるんです。


そうそう、イメージをね、確立しなさいと言われたんです。友人にね。
ガタリの致命的なところは、確固としたイメージが持てないところだというんですね。
ぞっとしましたよ。ぼくは。愚かにも「良い音楽せえ作っていればね」と確固たる指針を逡巡しまくっていた自分に、はと気付いた。音楽が記号的に扱われることの是非はよくわからないけれど、イメージを作っていく、共通したイメージをメンバー全員が持つということは、何よりもプライオリティーの高いことだというあったりまえのことをおざなりにしていたわけです。

で、何故ぼくがぞっとしたかというと、以前書いたように、情緒的でメランコリックな曲を書いているわりにそれらは全然書きたいものではないということ、その乖離感を心地よく享受していること、そのことが「イメージわかねぇ」的問題の根本理由だと思ったから。
何が言いたいかわからない、色彩に乏しい、曲と歌が相容れない、などなど・・・。
この原因は作曲にあるのかもしれない。
さぁ、どうしよう。

(キーワードは『雨』、NGATARI HPのトップ見て気付く。雨が降ってはじめて姿を現す、風景がある。形があるのではなくて、形を作る余白、音楽が鳴ってはじめて気付く、沈黙。闇があってはじめて気付く、光。これだな。)


備忘録
・ヴォルフガング・ティルマンス展。
・横尾忠則展。
・モディリアーニ展。(一応)

はぁ、ダンスとか舞台観に行ってない。行きたいけど、腰が重い。

2008年05月08日

最近バカが流行ってますね。なんで?
やっぱり自分よりバカな方を見ると、人はカタルシスを得るんでしょうか。
まぁいいや。

ところで、他人の海外旅行の写真って、とっても楽しそうに見えるのはなぜでしょうか。まぁいいや。

最近、結婚式の音響オペレーターを始めました。
これが、ひどくストレスフルな職場なんだな。
研修期間だけで、すでに心身ともにぼろぼろです。
この精神的磨耗の対価として・・・

結婚式日記とかつけようかな。
世の中の人々が、いかに結婚式というものに腐心し、絶対的な人生のセレモニー(もしくは幸福の縮図)と見立てているかということを、延々と書いてやろうか。よし、次回からはそういうの書こう。キャッチャーのホールデン風に書こう。

陋劣な民の、厭らしくクレイジーな宴会風景を君にもみせてやりたいよ。とにかく、結婚式にいそいそと来臨する女の子の200パーセントは、自分のドレスを何百万本ものキャンドルに照らすために招待されているんだよ。まじめな話さ。

なんて。

2008年01月05日

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。


クリスマスやらお正月やら、特別に好きでもないけれど、
それぞれの季節を確認する作業は重要だと思う。
一年を短いスパンで分割すればするほど、
効率よく物事をこなせるし、明確なニッチを持つことができる。
(と思う。)

今冬は、ヤキイモを作り、風呂に柚を入れ、祖母の誕生日を祝い、密かにサンタが来た。大晦日は川崎大師に行った。
元旦は実家のおせち料理に舌鼓を打ち、天皇杯を見た。
「年賀状?んなもん社交辞令だろ?ケ」と豪語していた彼は、彼宛に届いていた数枚の年賀状を手に取り、破顔一笑ともいえる表情を浮かべた。(彼は一通も出していない。)
近日中に手作り凧を作って凧揚げをする予定です。


大掃除。
「誰かやってくれねーかな…」と毎分2000回ぐらい呟きながら
お風呂のタイルなどを磨く。
ぼくの敬愛する内田樹氏は
「家事をアウトソーシングする人間をわたしは信用しない」的なことを
と豪語している。なので、渋々磨く。

08年、二日目。
早々と作曲したい魂がアクティブになる。でも眠いので、半日は猫とごろごろする。タキタニ(♀猫)と七並べとか、福笑いとかする。
すぐ飽きる。

08年、五日目。
お祭り気分もやや矮小化したので、いっそう仕事に励む。
古橋悌二のmemorandumを読んで、幸せが喚起してモチベーションとなる。新作レコードの曲が3曲まで終わる。しかし眠い。


今年は勉強がしたい。
音楽をやっていると、自然に世界の物事を音楽世界のフィールドに引っ張り込んで、無理矢理解釈しようとしがちである。音楽を糸口にして、他の分野について思考するというのは、それはそれでおもしろいし、重要なアプローチではあるのだけど、同じ世界にコミットし続けるのは大変危険な状態であろうと思う。すでに知っている世界を主題的に勘案するのは、楽ではあるけれど、アバンギャルドではない。
また、音楽みたいな嗜好性の強いあいま~いなことをやっていると、旧態依然の日々が続きかねない。



すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。
その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。
若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、というしかたで、私たちは少しずる成長してゆく。

さて、どこに行こうかな。


友人の御成婚が相次いだ。(相次ぐ。)
「なぜ、みんな結婚するんだ?考えられん!プンプン」などと
古い友人と電話で、ややパセティックに嘆く。
現状の1割程度、自分への興味が薄れたら、結婚などと考えてもいいかもしれない。今はまだ、自意識と無知がべったりと体中に張り付いているので無理です。


「タキタニ、おまえも映画観るか?」
「にゃー」
「そうか、じゃあ、一緒に観よう」

彼女との、この腹話術的コミュニケーションが、ぼくの生活において唯一、会話能力を涵養する機会である。
人は往々にして、野菜や、車や、バットや、灰皿や、小銭やらとピア・カウンセリングを行う。そうやって、ぼくらは独りの暮らしにリズムと色彩を持たせる。
などと書いていると、「さみしーにゃー、あんた。」と言われた。


先月は、歩かなかったし、何も見なかった。
いやな気分だ。まぁいいや、
書きたいことはまだ山ほどあるけれど、
年始だし、これぐらいにしておくか。
それでは、以下お知らせです。


11月にエクリから出版されました詩画集『空と樹と』の
トークショーを開催することとなりました。

日時/2008年1月27日(日)15:00-17:00(受付14:30-)
主催/開催場所:kurkku library
東京都渋谷区神宮前2-18-21 koti bldg. 2F
tel. 03-5414-6999
出演/長田弘(詩人)・日高理恵子(画家)
前売/2,000円・当日/2,500円
http://www.kurkku.jp/blog4/archives/2008/01/post_6.html


以降、いずれもガタリで参加します。よろしく。


2008/1/19
Live event
どらマティックナイト
アノヨシカズ, Lily, 内核の波, 日比谷カタン, ガタリ, GHQ
高円寺ミッションズ
Open / 16:30
Start / 17:00


2008/1/24
Live event
Natural Smile #08
Psalm, 紅月ノリコ, ガタリ
赤坂グラフィティー
Open / 18:30
Start / 19:30
前売り / 2000yen
当日 / 2500yen
チケット販売 / ぴあ (12月16日発売)


2008/2/2
Live event
Linus vol.3
Radi, 木村華子, ガタリ
渋谷公園通りクラシックス
Open / 18:30
Start / 19:00
前売り / 2000yen
当日 / 2300yen

2007年10月22日


親友の結婚が決まった。
衝撃である。
6年9ヶ月の紆余曲折を経て、婚約した。
衝撃である。
わたしはと言えば、まだネクタイ締められない。
衝撃である。

15年前、同じ学校に入学し、イタリア、イギリスをともに旅した友人である。シンパシーを感じあえる人間だ。

詩人Rogau氏の
「女性という貨幣は多くの悩みを癒す。もしもそれを、適度にそして適時に使用するならば」という名句を喉元に止めて、
トルストイを引用し、祝詞を述べた。

おめでとうございます。


もうRadioheadのリリースに熱くなる年齢は過ぎたと思っていたけど、
『In Rainbow』Downroadしてしまった。格好良い。

よし、がんばってミスドのポン・デ・ライオンストラップ当てるぞ。


さて、今月は大忙し。
11月7日から始まる展覧会のために音を作り、
11月7日発売予定だったCDのミックスに励む。
でも温泉は行く。猫とも遊ぶ。読みたい本も山積みで、いくつかの展覧会も行きたい。女の子とご飯食べに行きたい。ゆっくり料理をして、掃除して、こたつで七並べしたい。映画館で二幕分昼寝なんかもいいな~。

先月体調を崩してから、ますます健康オタクになりました。
近年、野菜に含まれるビタミンやミネラルが激減しているらしい。
ほうれん草のビタミンC含有量などは、ここ五十年で平均値、150mgから35mgに変化しているそうですよ。
実は、食生活の改善より、栄養素の多寡に注視すべきなんじゃないか?


タキタニ(猫)がバイエルを始めました。


11月7日(水)
7th Floor 渋谷
Open 19:00
Start 19:30
http://tpdrecords.com/

2007年10月13日

―最近ひどく落ち込む。


黒川紀章の訃報をテレビでみて、ひどく落ち込んだ。


国会答弁にて、田中眞紀子が福田首相に、
「元官房長官であるあなたは2002年の北朝鮮における拉致被害者リストを公表しなかった。」と責任追求していた。
はぁ?5年前じゃん。答弁の時間に言及することじゃねーだろ。アホか?

それに対して福田康夫は、
「わたしも老年なので、はっきり覚えてませんね。ってゆーかそう思うなら翌日に言えや。」と薄ら笑いを浮かべていた。 まったくだ。おまえは正しい。

―最近ひどく涙もろい


内田樹著の「村上春樹にご用心」の帯に書かれた内容紹介でなぜか涙ぐむ。
「私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。」


とある糞映画の予告編で、
「音楽が人を救うことができると信じさせてくれた―ニューヨークタイムス」という純朴コメントを読んですすり泣く。


やきとりの匂いにつられ、(いや別に釣られてないけど)佇立し、そして泣く。


多摩川沿いを散歩していて、鬼灯(ホオズキって読むんだよ)の匂いを嗅いで、泣く。


最近、金木犀の香りが芳しいですね。泣く。

―最近ひどく歳を感じます。


 「SoftBankにして良かったことは?」
 「電波が他社よりないんだよ」
 「それデメリットじゃん」
 「電話かかってこないじゃん」

ソフトバンクにしました。よろしく。(ソフトバンクの人、通話料&パケット無料だよ)


串田和美&宇野亜喜良の舞台を観にいく。開演前に読んだ養老孟司の文章のほうが印象に残った。(別に歳と関係ないけど。)


人に会うと、「今後どうすんの?おまえ」と聞いてしまう。

―最近ひどく孤独です。


7年来の友人と食事をする。魂の肌理が洗われる。


明日は5年来のスイートハートと食事をする。きっと魂の肌理がささくれる。


猫を飼い始めました。名前はタキタニです。

「多分ね」と僕。「殆んど誰とも友達になんかなれない」
―『1973年のピンボール』より

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11月7日(水)渋谷 7th Floorにてライブ。

是非。

2007年09月26日

健康に関してナーバスになった。
というか、わたしはもともとそのような性質のようだ。
健康を維持することで第一に重要なのは、バランスのとれた食事でも、毎日の運動でもなく、心の問題である。「病は気から」と言うけれど、本当にそうなのだ。

心理的なストレスで病態が悪化したり、より重大な病気を誘発させることがあるように、身体への執拗な気遣いや不安感は生命運動を極度に低下させる。
このような状態を武道用語で「居着き」というらしい。(非中枢的身体論より)

―このように、おのれの生命身体についての過度の気遣いが不安を昂進させ、結果的に運動能力を低下させ、生命身体の危機がいっそう高まる。この悪循環が「居着き」の構造である。(…)「居着きの克服」ということを技術的な課題とした場合、私たちはただちに「意識を身体的に徴候化させないためにはどうすればよいのか?」という問いに差し向けられる。そして、この問いに答えるために、私たちはさらに「では、どのようにして意識は身体に徴候化するのか?」という問いへ遡及することが必要になる。(内田樹―非中枢身体論)

この解答とさらなる身体への言及がめちゃくちゃオモシロイんだけど、長くなるので割愛。というか次回へ。 というわけで、余計な心的ストレスを負わないように、現在、わたしは十二分に栄養を摂り、適度な運動を課している。

今朝はシリアルとヨーグルトを食べ、豆乳を飲み、
昼食に野菜たっぷりのスパゲッティーを茹でた。
今夜は鰆の照り焼きと納豆、大根としめじと牛蒡の煮物(菌類の定期的な摂取は重要である、である!)、海草とアボカドのサラダを作る予定である。そして食後に3キロばかり走り、となりのトトロを観て、メールをチェックし、内田樹のブログを回診し、R.シュトラウスのサロメを聴きながら寝る。

なんて健康的なんだ。

まぁ、こういう身振りで健康管理に言及しているということはわたしは今、かなり好調だといって良いね。 と考え出すと、また調子悪くなるんだなこれが。


コルビジェ展に行った。展示期間は三ヶ月以上もあったのに、なぜ終展前日まで行かなかったのだろう…。
恐ろしく混んでいて、入場はディズニーランドの行列さながらであった。でも内容は良かった。


スクラップヘブンを観た。俳優が良かった。


ルドンの黒展。モノクロよりも静物画のほうが素敵だった。


次回のイベントの参加を請うために、あべうみたろう氏のライブに行った。なんて感じの良い人なんだろう。素敵な人だった。

2007年04月09日

「私の人生というこの長い疾病」
―Alexander Pope

最近、昼食をドトールで済ませるのが日課になっている。
祝平日問わず店内はテカテカした顔の主婦やら、無意味に辺りを睥睨しているヤンキーどもで溢れ返っている。
煙草の煙が立ち込めていて酷く視界が悪い。
なんて前世紀的な喫茶店なんだ。
禁煙コーナーは、校内プールの消毒場ほどのスペースが隅のほうに設けられているだけで空席はない。だから僕は副流煙の害毒を被りながら、致命的な昼間のひと時を過ごす羽目になる。

だからといってドトールはそれほど悪い場所ではない。
ドトールのミラノサンドは意外と美味いし、店員は押し付けがましくなくて親切だ。
(ミラノにあれほどふっくらしたパンは存在しない)
それに昼下がりに時代遅れの煙草の煙に包まれて、時代遅れの甘すぎるコーヒーを飲み、時代遅れの小説を読むのは決して不快ではない。
ストーンズとかザフーなんかを聴きたくなるし、日常の中で非日常を体感できる。要するに、ミニタイムスリップである。

でも2007年に、時代錯誤の肺がん促進物質も、攻撃的で、イノセントなロックも必要ない。
ベトナム戦争は終わったのだ。
反権力も、つまるところ権力でしかなくて、そんなものは過去のノスタルジーでしかないから。
時代にはその時代の、しかるべきベクトルがある。


誰かが、「ひとりの時間を持ってみようと思う」と言った。


早足で階段を駆け上がる   
交差点は哀しい       
蜂蜜はひどく甘くて、嬉々と顔を覆う
曇天を蹴った         
島から島へとふるい落された           
菌の名前を覚えて        
ボートから降りる        
電灯の灯る臨海公園をすり抜けて  
陸に架けられた橋を渡ろう       
音と境内、または迷路のような紅茶         
黄色い自転車を探して           
暴風雨の夜、小さな駅にたどり着く  
不自然に整理された部屋は         
前夜祭のようだ             
桜の降る夜には、22時を過ぎると
完全な静寂が訪れるらしい        
地下の珈琲屋はとても素敵だったし           
暖かなソファーに座って眺める画集は
幸福の象徴だったように思う              
でもきっと
けばけばしい観覧車のほうがぴたりとあったんだ     

前衛的な建築物も、示唆に富んだ動物の表情も         
ただ、異国の言葉を耳に残して
旋回するように歩く  

手のひらには確かな暖かさがあったけれど        
食べ残した皿は現実味を失って脳裏から離れない      

和菓子のような、春めいた坂道            
あとどれだけの扉が閉ざされているのだろうか
あと五回会えたら、水先人を務めてもいい
海の喫水線に目を凝らして、耳を澄ませ、
歩いて、歩いて、風が好きだと思う

世界


なんだ、夢か。幸せな幻だったな。

僕は30分の睡眠の後、一日中ガードレールに寄り掛かっていた。

睡眠欲を持つ幻や、
うなぎを食べたいと呟く白昼夢がいったいどこにいるだろう。
魅力的な幻は駅前のドトールなどではなく、
密やかなテラスで煙草を吸うのだ。

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