僕は一人でマクドナルドを食べるのが好きだ。
安っぽいプレートに散らかったポテトフライを摘んで、コカ・コーラを飲んで、頻繁に時計を覗くのだ。
まるで槁木死灰である。 マクドナルドに入って、僕は51番目の州の殉教者になる。
閑話休題
辻嘉一の言葉は明快だ。
「ら~めんという食べ物、あんなものわたしは絶対食べません。」
ら~めん屋を営業している店主や、ら~めん職人の人たちは
得てして胡散臭い。不可解な信条を掲げて、妙にプライドが高くて…。
それでは知性や食の機微を知らない人たちが作るら~めんという料理は不味いのかというと、そうでもない。むしろ美味いのである。それどころか、定期的に食べたくなるようだ。
味覚というのは当然、十人十色であるはずだ。
しかし、マクドナルドをはじめとするファーストフードを美味しいと感じる舌は、辻嘉一の言葉を借りるなら、調味料を美味しいと感じる「舌」は果たして正しいのだろうか。
音楽や映画に、「良さや美しさは十人十色」なんてことは絶対にない。良いか悪いかの二者択一だからだ。 良し悪しの喫水線に目を凝らし、耳を澄ませて、舌鼓を打つ。
そのように培われた解釈能力こそセンシビリティーというものだ。
食べる人が食の知識や食材の鮮度、旬を知る必要はないし、それを料理人が言葉でサジェスチョンする必要も全くない。 聴く人が音楽の数理的な秩序や、音の要素を知っている必要はないし、それを音楽家が示唆することもまたナンセンスだ。 だが、それだけに、音も料理も一つの皿からその美しさを感じ取るのはほとほと難しい。
「日本人が本当の味覚を取り戻すことはできるか」という質問に辻嘉一は、「案外、それは出来るのではないでしょうか。」と言った。 僕は"日本人が本当の耳を取り戻すことができる"とは到底思えないんだけど、どうなんでしょ。というか本当の耳ってなんだ。
一昨日、友人たちは僕の料理を美味しいと言ってくれた。
昨日、マイじいちゃんも、僕の調味料で誤魔化された料理を、「これは美味い!」と言った。
マイじいちゃんは舌の肥えた人だ。
さて、本質はどこにあるのか。


